父の命日を迎えて
2009年01月02日
この時期になると、私は必ず思い出すことがある。
【8年前の1月3日に旅立った父】
今から8年前の2001年1月3日の午後、父は旅立った。
私は当時、千葉県の船橋市に住んでいた。
母から父が他界した知らせを受けたのは同日の夕方。
すぐに支度をして新幹線に飛び乗った。
まだお正月気分の人達で満員だったが、
私はどこか異次元の世界にいるようだった。
車中では、父とのあれやこれやの思い出が
走馬灯のように頭の中を駆け巡っていった。
父が買ってきてくれた空気で膨らませる象のおもちゃに
大喜びした私、京都の八瀬遊園地で鱒釣りに興じたこと、
奈良のドリームランドでの楽しい思い出、
父とのキャッチボールや打ちっぱなしのゴルフ場で
手ほどきを受けたこと、ステレオを買ってもらった時のこと等々。
涙は流れなかった。。。
ただ、車窓を流れ行く風景が無機質なものに見え、
そして、周囲の乗客の話声がまるで耳に入ってこなかった。
【父の最後の言葉】
以前にもブログに書いたが(9月11日付)、
父から私への最後の言葉は、
「お前がセミナーの講師をしている姿が目に浮かぶ」だった。
当時はセミナーの講師など一度もしたことがなかったし、
まったく別の仕事に就いていたにもかかわらずである。
しかし、私は本当に今、セミナーの講師として
人の前に立っている。
そしてそれに私は働き甲斐を感じている。
父には将来の私の姿が見えたのであろうか。
このことは今思い返しても、本当に不思議なことである。
【今年は・・・】
そんな父がよく言っていたことがある。
「基本を大切にする。」
私は今年、働くスタイルを少し変えるつもりでいる。
それが吉と出るかどうかは分からないが、
スタイルが変わろうがベースとなるものは同じだと思っている。
いつも基本を忘れることのないよう、
そして「看脚下」の姿勢で臨んでいきたく思う。
父の命日を迎え、そんなことを考えた一日だった。
【8年前の1月3日に旅立った父】
今から8年前の2001年1月3日の午後、父は旅立った。
私は当時、千葉県の船橋市に住んでいた。
母から父が他界した知らせを受けたのは同日の夕方。
すぐに支度をして新幹線に飛び乗った。
まだお正月気分の人達で満員だったが、
私はどこか異次元の世界にいるようだった。
車中では、父とのあれやこれやの思い出が
走馬灯のように頭の中を駆け巡っていった。
父が買ってきてくれた空気で膨らませる象のおもちゃに
大喜びした私、京都の八瀬遊園地で鱒釣りに興じたこと、
奈良のドリームランドでの楽しい思い出、
父とのキャッチボールや打ちっぱなしのゴルフ場で
手ほどきを受けたこと、ステレオを買ってもらった時のこと等々。
涙は流れなかった。。。
ただ、車窓を流れ行く風景が無機質なものに見え、
そして、周囲の乗客の話声がまるで耳に入ってこなかった。
【父の最後の言葉】
以前にもブログに書いたが(9月11日付)、
父から私への最後の言葉は、
「お前がセミナーの講師をしている姿が目に浮かぶ」だった。
当時はセミナーの講師など一度もしたことがなかったし、
まったく別の仕事に就いていたにもかかわらずである。
しかし、私は本当に今、セミナーの講師として
人の前に立っている。
そしてそれに私は働き甲斐を感じている。
父には将来の私の姿が見えたのであろうか。
このことは今思い返しても、本当に不思議なことである。
【今年は・・・】
そんな父がよく言っていたことがある。
「基本を大切にする。」
私は今年、働くスタイルを少し変えるつもりでいる。
それが吉と出るかどうかは分からないが、
スタイルが変わろうがベースとなるものは同じだと思っている。
いつも基本を忘れることのないよう、
そして「看脚下」の姿勢で臨んでいきたく思う。
父の命日を迎え、そんなことを考えた一日だった。